東洋館がリニューアルということで、東博に出向いた。

ガラスが良くなり展示物が全体的に見やすくなった。


さらに地下にカンボジアものの展示コーナーができ、今まであまり見ることのできなかった「アンコール遺跡」ものを見ることができるようになった。カンボジアの彫刻はエキゾチック度が高く中国や日本の彫刻と一味違う。インドとの共通点を上げる向きもあるが、それとも一味違う。

違うだけではなく写実のレベルがグンと高い。時代は上がるがポロブドゥールあたりと写実に関して共通の感覚を感じる。この辺りはまた別の機会に詳述したい。



さてリニューアル・オープンに行ったのだが、少し出遅れてしまい、楽しみにしていた伝夏珪*下(1)は見逃してしまった。































(1)



代わりに馬遠、梁楷、顔輝といったところを見ることができた。梁楷の「出山釈迦図」を中心とする三幅対を三幅対として見るのは二回目だと思う。「出山釈迦図」、ロバに股がった2人の韃靼人が何やら言葉を交わす様子が点景で描かれている思わせぶりな「雪景山水図」。この二幅を対としてたシンクロ感覚は良いのだが、最後の一幅を加えて見た時の三幅対としてシンクロ感覚が今ひとつピンとこないでいる。この話も別の機会にしたい。


で、結局今回じっくり見てしまったのが東洋館ではなく、本館にあった伝周文の山水図(2)である。



(2)

障壁画の一部であったとのことで、その痕跡が画面に見られる。解説によると夏珪の画風に倣った瀟湘八景図の内の「江天暮雪」との見立てである。要するに室町時代に、足利家が所持し日本に現存していたとされる夏珪の八景図を何らかの要請により「ふすま絵」に写したものではないか?という見立てだ。そして、その命を受けるのに相応しい当時の人物として周文が想定され、伝周文とされているということなのだろう。


 (3)

拡大図(3)を見ると解りよいと思うが、樹木の書き方など伝夏珪の(1)と共通点が見られ、夏珪様である。

しかし、伝夏珪とされないのは、これも樹木の書き方等に夏珪の(1)と比しても、夏珪の名を冠するには等閑な点が多々見受けられ、「倣い」であるとするのが妥当であるという判断であろう。

しかし、中々良いできである。人物を比べるためにこの図のアップ(4)と、これも東博所蔵の別の伝夏珪(5)を上げておく。




(4)















































(5)
(5)の実物は画面がかなり暗くなってしまっており、これは随分明度を上げ、見やすくした。実物は豆粒ほどの大きさである。

夏珪の点景人物を見るたびに「モダンだな〜」と感じる。この絵でも斜め後ろから人物の歩く姿を大変立体的に捉えている上に、動きのつかまえ方がとても優れている。フィルムをまわして最良の一こまを抜き出してもこうは行かない。

ここで表現されている「歩行」というのは当たり前だが間断のない動きである。いずれかの一瞬が他の一瞬に比して特別に安定的で、特権的なポーズであることはない。一瞬を切り取れば、どこかにアンバランスさを宿している。そこに動きが表現される。夏珪はそのことを大変良く理解していたのだと感じる。

さて、(5)のように、ほんの少ない筆数で歩行している人物を見事に捉えているありさまに「夏珪」を見るとすれば、(4)の左隅の人物はどうであろう。

画面自体が大きいため、(5)と単純に比べるわけにはいかない。筆数は実物の大きさに見合っている。風に煽られ傘を押さえているように見えるが、図内の樹木を見ると風が吹いているわけでもなさそうなので、そのために腰が泳いでいるというわけではない。では坂を下っているためか?雪の中、傘をさし、坂道に気を付け足下に目線を落とし歩行する人物。

中々いい線ではある。が、やはり(4)は夏珪とは行かないという判断にも頷けなくはない。

もう一点夏珪を上げておく。下(6)は夏珪ではなく、「夏珪」とされている。














                                                                                                                                                        (6)

これは現在アメリカのネルソン・アトキンス美術館(http://www.nelson-atkins.org)にあるのだが、10年ほど前の東博の雪舟展の折に出品されていて、穴のあくほど何回も観た。

船上で作業する人物を少ない筆数で捉える感覚に「夏珪」を見ることができると思う。画中の人々の船上でのチームワークのとれた巧妙な動きの様子、それに伴う船のバランス、そして波紋etc....(6)は画巻の部分の拡大である。実物は空間の広がり、構成などなど見所満載。その人間技とは思えない繊細すぎる筆致に見とれること大混雑の中にもかかわらず二時間という大変な絵である。















                                       (7)

現在、夏珪の真筆としてコンセンサスのとれている絵は存在しないのだそうだが、ぼくは何点かそうではないか?と思っているものがある。その内の2点が、ネルソン・アトキンスの(6)と東博の(5)。(1)も随分良いと考えているが、もう一度見てみたいと思っている。

(7)が夏珪なら(4)は夏珪で良いと思うが、史実としてこのような大きさの夏珪が日本にあったとは言えないという事があるのであろう。

その判断を尊重すると、残る可能性は良い腕の画家が夏珪の図案を写したのだということとなる。

ここまで見てきたように、この絵は夏珪様式ではあるが、夏珪とも伝夏珪ともできないという見立てである。では雪舟としても良いではないか?というのが次に来るが、どうも筆致がらしくない。もしかすると由来から推察して、時代が上がるとの判断があるのかもしれない。

そこで雪舟の師匠周文の登場となる。

長くなったので次回に続く。






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